絆は永遠

この前,読んだ本のラストに書かれていた言葉がすごく心に残ったんです。『死』は必ず誰にでも訪れます。生あるもの全てに。人はそれぞれに寿命があって、そのタイミングが違います。運命は残酷だなって思うこともあります。
でも、その本では登場人物みんなが、もう会うことができないけれど心から大切だと思っている人の写真をそれぞれ持ち寄って、その人についての想いを語ります。自分の母親や父親、妻や兄弟の写真などを真ん中に飾って、懐かしい想いを共有するんです。一人で写真を見ていたら涙が溢れてくるかもしれません。でも、仲間がいるから、みんなそれぞれに大事な人がいるのだから、湿っぽくならないんです。そして、主人公は「亡くなった人を思い出すことは悪くない」と話します。そういえば、私も高校の同級生で若くして亡くなった友人がいます。同級生が集まった時には、必ず彼の話がでます。ただ懐かしむだけでなく、みんな、彼がそこにいるかのようにからかうようなことを言ったり、悪口を言ったりします。そして、笑い合うんです。どれだけ彼がみんなに好かれていたのかがわかります。
その本のラストの言葉。それは『死は命を途絶えさせるけど、その絆を途絶えさせることはできない』というものです。本当に心に響く一節だし、自分自身の体験からも体中に沁み渡る言葉です。

意識って不思議

この前、読んだ小説は、事故で命を落とした主人公の魂が他の人の中に入ってしまうというストーリーでした。交通事故にあった瞬間、「あーっ」と叫びながら、幼い頃に父親と遊んだことや初恋や楽しかった学生時代などが次々と頭の中に浮かんできました。もちろん、フィクションだから事実ではないんだけど、その光景が読んでる私にもはっきりと見えました。だから、人が命の危機に直面したときって、きっとそうなんだろうって思えたんです。
でも、その時、私も似たような体験をしたことがあることを思い出しました。それは学生時代のことです。バイト先の店長とバイト仲間みんなで初日の出を見に行ったんです。一台のワゴン車に乗り込んで、深夜に出発しました。日の出がキレイに見える場所を誰かが調べてくれていて、山道をグングン上がって行きました。山の上で海からの日の出を見る計画だったんです。でも、あいにくの天候で途中から雪がどんどん降ってきて、結局初日の出は見れなかったんです。それでも、みんなで出かけたことは楽しかったものです。でも、帰り道。山から下りているときにワゴン車が大きくスリップしてハンドルが効かない状態になったんです。その時のことを今でもよく覚えています。眼下に海が見えて、身体には崖から海に向かってフワーッと落ちて行く感覚がありました。絶対に落ちる、もう助からないと思っていました。不思議なのは、その時の様子が本当にスローモーションのようだったということです。けど、幸いにも道路わきの木にぶつかって止まったんです。目を開けた時に落ちていなかったことが不思議なくらいでした。思い出しただけでゾッとします。
小説は交通事故から物語が始まるんだけど、現実はダメです。やっぱり、そんなのは小説の中だけがいいですよね。

もう一つの物語

小説には続編があるものがあります。もともと初めから上下巻に分かれているものもあるけど、それとは違います。それはそもそも一つの長い物語を二冊に分けているのですから。続編はいったんそのお話は完結したんだけど、後に続きとして新たに物語が始まるといったものです。でも、それとも異なる、別の角度からの物語があることがあります。たとえば、主人公の友人の目線からのお話などです。本来の小説では主人公を囲む登場人物の一人としての役割だったのが、もうひとつの物語では主人公になってお話が進むのです。今まであんまりそういう類の小説を読んだことがなかったんだけど、これが面白いんです。ただ、個人的には最初に元のお話を読んでからの方がいいんじゃないかと思います。別人の目線だと時間の流れ方も違うし、「この時に実はこんなことがあったんだ」なんて新たな発見になったりします。そして、本編では主人公の感覚、想像でしかなかった部分が明らかにされることや全く触れられていなかった部分が表に現れてくることも興味深いものです。
少し前に読んで、とても面白かった小説にもう一つの物語があることを先日、知ったんです。今、すごく気になっています。そこにはまだ私が知らないことが沢山散りばめられているかと思うと、期待が膨らみます。早く読んでみたいです。

まるでノンフィクション

ふつう小説はフィクションのはずなんだけど、たまに実際の事故や事件を題材にした物語があります。それが題材になってると公言されているのかいないのか、そこはわからないんだけど、読んでたら明らかにそうだとわかるんです。けど、そもそもノンフィクションじゃなくて、勝手に小説にしてしまってもいいのかなってことなんですけど。でも、名前を出しているわけでもなし、単なる物語だと言えば何ら問題がないんでしょうか。そのあたりは一読者の私にはよくわかりません。
でも、先日も実はそんな小説を読んでいたんだけど、やっぱり内容が内容だけに緊迫します。まるで当時者になったような感覚になりますもの。けど、それぞれの立場での見方や考え方が描かれているから、よけい事実を追っているように思えるんですよね。思わず、本当はこうだったのかって思ってしまうんです。でも、冷静に考えてみたら、小説なんだから、「いやいや、これは作り話であって真実ではない」って思い直すんです。でも、ついつい新聞の記事のように受け取ってしまう自分がいます。だから、読みながら、またしても『そんな内情だったのか』なんて思ってしまって、はたと気づくんです。これは小説なんだって。
けど、作者はどうして事件の内情を知ってるんだろう。あ、これも違いますよね。取材で知ったかもしれないけど、全くの想像かもしれないですものね、あくまで物語ですから。

本を読む習慣

世の中には本の面白さを理解していない人もかなりいますよね。電車に乗ってるとけっこう読書をしている人はいますけど、全体からしたらやっぱりスマホを触っている人の方が断然多いです。そもそも読む習慣がないという場合もあるでしょう。子供の頃からその習慣があるならきっと今も習慣にしているだろうけど、そうでなかったなら急に変わるのは難しいのかもしれません。
けど、先日、新たに読書を習慣づけることを勧める記事を見かけたんです。ちょっとした空き時間に本のページを開くようにするといいって。でも、いきなり、そんな風に言われても、今までしていなかったことなんだから、急にはなかなか楽しめないかもしれません。だから、ハードルをうんと下げる必要があるんだそうです。喫煙者が禁煙するときに、たばこに手を伸ばす代わりにガムを噛むのと同じように、一日に何度となく開くフェイスブックの代わりに、短いセンテンスに区切られた本を読むことから始めればいいんだと提案してありました。そうすることで、2週間もすれば本を手にする時間がどんどん増えていくんだそうです。確かに、実績のある経営者やリーダーと言われている人たちは読書家です。そこから得るものは多いし、思考の仕方もきっと変わってくるんでしょうね。
職場には、本には全くと言っていいほど縁がないという男性がいます。ちょっと誘導してあげなきゃ。

おもしろ「土佐日記」解説

読書が好きだけど、専ら現代文で古典にはほとんど触れていません。でも、たまに小説の中に取り上げられていたり映画に取り上げられていると興味が湧きます。
先日、かの有名な『土佐日記』について、ある記事を読んだらすごく面白かったんです。記事の筆者の解説が楽しいったらないんです。学校で習った時のような解釈ではなくて、現代に当てはめたものだから本当に笑えました。記事を見かけた時『女装おじさんの旅日記』となってたから、一体どんな内容なのかと思って見たら『土佐日記』だったんです。たしかに、『土佐日記』は、「私は女だけど文章を書きますよ~」という書き出しでしたよね。でも、紀貫之は明らかに誰もが知る男性ですものね。当時は男性は漢字、女性はひらがなを使う文字のルールがあったから、貫之はひらがなでの文章を書くために女性になり切って書いたんだそうです。でも、そこには女性なら絶対にこんなことは言わないだろうという『おやじギャグ』や『ダジャレ』が散りばめられているんですって。筆者独自の現代語訳が、とびっきりの出来でした。思わず声に出して笑ってしまったんですもの。電車で読んでなくて良かったと思ってしまいました。昔の文学も教科書みたいな解釈ではなく、現代風に解釈すると面白さが倍増します。苦手な古典だけど、ちょっと足を踏み入れてみたくなりました。

映画化してほしい小説

映画化される小説やコミックって、どうやって決まるのかな。読者からの要望なのか、制作会社が撮ってみたいって思うのか、その辺のことは全く知らないんだけど、興味はあります。映画化が決まって、その評判を聞いて原作を読んでみることが結構あります。でも、小説を読んでいるうちに、これを映画化してほしいなって思うこともあるんです。人間模様が面白い場合は特にそう思います。それは、いつも読みながら物語の中の風景や状況に自分も溶け込んでいたり、すぐそばで見ているような感覚だったりするんです。けど、その情景の中にどんどん引き込まれる時には頭の中にある映像を引き出したいって強く思います。まるで、今まさに映画を観ているように思うことだってあります。そんな時には、スクリーンを頭の中に描いていて、スクリーン上のタイトル文字までイメージして見えることがあります。
この前、読んでた小説も映画にならないかなぁって思っています。ハッキリとタイトル文字が頭の中に浮かんでいます。時空を超えるストーリーだから絶対に楽しめると思うんですよね。登場人物の配役まで一部は決めています。って、「関係ないじゃん」って突っ込まれそうですけどね。でも、もし、本当にそうなったら、封切り早々劇場に観に行くことは間違いありません。

ご近所トラブル小説

時々実際にあるご近所のトラブルをテレビでも目にすることがあるけど、今読んでる小説にも出てくるんです。それには子供が関わっています。子供には罪はないと思うんだけど、親の都合や付き合いにどんどん巻き込まれていくんです。その内容は本当に「小説で良かった」と思います。だって、実際にそんなことが起こったら、ものすごく怖いんですもの。でも、起こるかもしれないって思える内容なんです。人間の深層心理ってはっきり言って、とても口にできないようなこともあります。私だって、心の奥で思ったり感じたりすることは全て良いことかって聞かれたら頷けません。それぞれの育った環境も違うし、その時の立場もあります。みんなが自分本位でいたら上手くいくはずなんてないですよね。お互いを理解しないと。特にご近所の問題は深刻になることが多いみたいです。なぜなら、小学校、中学校、高校、大学、どれも卒業すれば別々の道に進むことが多く、ともに過ごすのは一時期だけだと言えるけど、近所の問題となると、一生の問題だと言っても過言ではありません。ローンを組んで家を購入している場合も多いから、簡単に引っ越しをするという手段は選べませんものね。やっぱり巻き込まれたくないって思うのが本音です。私は子供の頃のことを考えても、たぶん平和な中で育ってきたと思います。だから、小説の中のトラブルは、疑似体験のようで鳥肌が立ちます。それはやっぱり小説の中だけで十分です。現実は持ちつ持たれつでお互いに譲り合って協力し合って生活していきたいですよね。

『恋煩」いっていう病気

先日、ある小説を読んでいたら、そこに出てきた『恋煩い』という言葉。普段はあんまり耳にしませんよね。でも、誰もが一度は聞いたことがある言葉なんじゃないですか? 私はそれを単に誰かに恋をすると一日中ずっとその人の事を考えて、ため息をついたりするから、そう呼ばれるものなんだと思っていました。でも、その小説に出てきた『恋煩い』って、本当に病気だったんです。食欲が全くなくなって、眠れなくなって、ついにはベッドから起き上がることもできなくなるんです。「そんなことってあるの?」と驚くばかりでした。けど、実際にも『うつ』に似た症状になったりするんですって。もちろん片思いでなくなれば治るんでしょうけどね。私はというと中学の時には、そこまでじゃないけど憧れの先輩のことを考えてはため息をついたりしてたかな、なんて思い出します。けど、たぶん食欲が失せたりはしなかったと思います。そんな記憶もないですし。でも、中学生時代のピュアな気持ちは懐かしいです。
けど、『恋煩い』って年齢に関係なくなってしまうものなんですね。だって、小説の中の登場人物なんて50歳でしたから。まぁ、「小説だから現実ではない」と言われればそこまでですけど。50歳のそれは重症でした。けど、いつか読んだ本には「人は死ぬまで恋をすることができる」って書いてありました。それって素敵ですよね。場合によっては問題ですけど。

やっぱり小説かな

先日、友人と久しぶりに映画を観ました。かなり話題になっていたものだからすごく楽しみにしていたんです。封切りになってからもう随分経っているし、仕事を終えてからの時間だから空いてるだろうって思っていたら予想外の人。念のために昼間にネットで席を確保してたから良かったものの、ほぼ満席だったんですもの。まさかそこまでの人気だとは。そうそう。その日がレディースデイだったこともあるかもしれません。私たちは偶然のレディースデイにラッキーだと喜んだけど、その日をめがけて来ている人もいますよね、きっと。そして胸の高鳴りを感じていると、いよいよ始まりました。でも、始まってまもなく私の中にはちょっとした違和感が……。自分でも初めはよくわからなかったんだけど、なぜか入り込めないんです。映像はものすごくキレイで、「これが話題の映像かぁ」と思うんだけど、何かが違う。そうなんです。実は私、その原作をすでに読んでいたんです。だから、いくら素晴らしい映像であっても自分の思い描いていたものとのギャップがあったんだと思うんです。小説を読んでると、必ず頭の中には無意識のうちに登場人物や風景が見えています。その小説も読んだ後に、すごく良かったと感じていたから映画にもすごく期待していたんです。そのうえ話題にもなっていて世間の評価も良かったから。でも、結局、最後まで私の心にはしっくりと入ってきませんでした。友人はというと、「すごく良かったね」と満足そうでしたけど。「この物語は自由にイメージできる小説の方が私には向いてたのかな」なんて考えながら家路につきました。