ある意味正解、ある意味不正解

この前、小説を読んでいたら、そこに出て来た会話がちょっと気になりました。外観は全然イケてないんけど、その味が絶品だという食堂が舞台なんですけど、そこで一人のお客さんが「人も料理も外見ではわからない」と言っていたんです。その一説を読んだ時に私は、正直「そうかなぁ?」といった気持ちでした。その言葉はある意味正解だとは思いますけど、別の見方をすれば不正解だと思うんです。たしかに、外見は怖そうでも、話をしてみるとすごく優しくてイイ人だったということがあります。また、B級グルメの中には、見た目はイマイチだけど『味は絶品』なんていうものもありますものね。けど、今までにビジネスの講習などでは、第一印象が大事だと教え込まれてきました。ほんの数秒で人の印象は決まるものだって。ご馳走だって、運ばれてきた瞬間に「わぁ、美味しそう」って思いますよね。そして、食べたらやっぱり美味しいんです。そう考えたら、『どっちもアリ』というのが正解なのかな。
でも、小説に「器の良し悪しと料理は比例する」という言葉も出てきたんだけど、これはほぼ正しいように思います。小説の舞台になっている食堂も外見はどちらかというと寂れているけど、一流の器を使っているのを見て、初めて訪れた女性が「きっと料理は本物なんだ」と期待をしたんです。やっぱりこだわりの料理はいい器に盛って出したいというのが、真の料理人の心なんだと思います。

美味しい小説

小説には色んな種類があって、中には料理や食べ物が題材になっているものがあります。読んでるだけで、その料理が目に見えてきたり、いい匂いがしてきたりします。もちろん、自分が知らない料理は勝手な想像をするわけだから、本当の物とは異なったものをイメージしているときもあるとは思うんですけどね。今、読みかけている小説もそうなんです。京都が舞台なんだけど、エピソードごとに何かしらのお料理や食べ物が出て来ます。京料理もたくさん登場するから、私の頭の中は勝手な想像といわゆる『はんなり』したイメージが出来上がります。物語は衝撃の事件があるわけでもなく、小川が流れていくような感じで優しく穏やかに進んでいくんです。こういう小説ってヘタすると退屈だったりするのに、この物語は全然退屈ではありません。美味しいご馳走をゆっくりと味わうように、登場人物の心の通い合う様子や心の動きを楽しめるんです。たまには、ドキドキやワクワクでのめり込むような物語ではなく、ゆったりと癒されるようなものもいいですね。そんな中では大事件じゃなくて、ほんの小さな出来事が心をつかんで止まないんです。まだ読み始めたばかりだから、読破するにはもう少し時間がかかりそうです。でも、もう完全にハマっています。だから、これからの展開が楽しみで仕方がありません。

医療小説いろいろ

先日、医療小説ばかりを紹介している記事を雑誌で見かけたんです。かなりの数を紹介してあって、なんだかそれだけでお腹いっぱいになってしまいそうな勢いでした。なぜって、医療小説自体が軽くサラサラと読めるものではなく、どちらかというと重いテーマが多く、専門用語も多いから、ちょっと気合がいる感じがします。私はミステリー要素があるものや、若干コメディタッチの物の方が好きです。本当にずっしりと重たいものは気軽には読めないからちょっと苦手なんです。なんだか体力消耗してしまいますものね。
けど、そこに紹介されている作品には、映画化されたものや本屋大賞などの受賞作もあって、大ヒット作品もありました。医療って、人が生きて行くうえで切っても切れないものだから、みんな興味があるんですよね。そして、なにかと、問題や事件にもなりやすいですしね。
また、実際の医療現場のことは一般の人にはわからないことが多いものです。だから、小説を読んで、その立場の人のことを理解したり、考えさせられたりするものです。読むほどに専門知識が増えていくから、誰かから、「どうして、全く関係ない仕事をしているのに、そんなに医療について詳しいの?」って尋ねられるかもしれません。もし、そうなったら、ちょっと胸を張って答えてしまいそうです。読書の賜物だって。ま、頭でっかちに過ぎませんけどね。

絆は永遠

この前,読んだ本のラストに書かれていた言葉がすごく心に残ったんです。『死』は必ず誰にでも訪れます。生あるもの全てに。人はそれぞれに寿命があって、そのタイミングが違います。運命は残酷だなって思うこともあります。
でも、その本では登場人物みんなが、もう会うことができないけれど心から大切だと思っている人の写真をそれぞれ持ち寄って、その人についての想いを語ります。自分の母親や父親、妻や兄弟の写真などを真ん中に飾って、懐かしい想いを共有するんです。一人で写真を見ていたら涙が溢れてくるかもしれません。でも、仲間がいるから、みんなそれぞれに大事な人がいるのだから、湿っぽくならないんです。そして、主人公は「亡くなった人を思い出すことは悪くない」と話します。そういえば、私も高校の同級生で若くして亡くなった友人がいます。同級生が集まった時には、必ず彼の話がでます。ただ懐かしむだけでなく、みんな、彼がそこにいるかのようにからかうようなことを言ったり、悪口を言ったりします。そして、笑い合うんです。どれだけ彼がみんなに好かれていたのかがわかります。
その本のラストの言葉。それは『死は命を途絶えさせるけど、その絆を途絶えさせることはできない』というものです。本当に心に響く一節だし、自分自身の体験からも体中に沁み渡る言葉です。

意識って不思議

この前、読んだ小説は、事故で命を落とした主人公の魂が他の人の中に入ってしまうというストーリーでした。交通事故にあった瞬間、「あーっ」と叫びながら、幼い頃に父親と遊んだことや初恋や楽しかった学生時代などが次々と頭の中に浮かんできました。もちろん、フィクションだから事実ではないんだけど、その光景が読んでる私にもはっきりと見えました。だから、人が命の危機に直面したときって、きっとそうなんだろうって思えたんです。
でも、その時、私も似たような体験をしたことがあることを思い出しました。それは学生時代のことです。バイト先の店長とバイト仲間みんなで初日の出を見に行ったんです。一台のワゴン車に乗り込んで、深夜に出発しました。日の出がキレイに見える場所を誰かが調べてくれていて、山道をグングン上がって行きました。山の上で海からの日の出を見る計画だったんです。でも、あいにくの天候で途中から雪がどんどん降ってきて、結局初日の出は見れなかったんです。それでも、みんなで出かけたことは楽しかったものです。でも、帰り道。山から下りているときにワゴン車が大きくスリップしてハンドルが効かない状態になったんです。その時のことを今でもよく覚えています。眼下に海が見えて、身体には崖から海に向かってフワーッと落ちて行く感覚がありました。絶対に落ちる、もう助からないと思っていました。不思議なのは、その時の様子が本当にスローモーションのようだったということです。けど、幸いにも道路わきの木にぶつかって止まったんです。目を開けた時に落ちていなかったことが不思議なくらいでした。思い出しただけでゾッとします。
小説は交通事故から物語が始まるんだけど、現実はダメです。やっぱり、そんなのは小説の中だけがいいですよね。

もう一つの物語

小説には続編があるものがあります。もともと初めから上下巻に分かれているものもあるけど、それとは違います。それはそもそも一つの長い物語を二冊に分けているのですから。続編はいったんそのお話は完結したんだけど、後に続きとして新たに物語が始まるといったものです。でも、それとも異なる、別の角度からの物語があることがあります。たとえば、主人公の友人の目線からのお話などです。本来の小説では主人公を囲む登場人物の一人としての役割だったのが、もうひとつの物語では主人公になってお話が進むのです。今まであんまりそういう類の小説を読んだことがなかったんだけど、これが面白いんです。ただ、個人的には最初に元のお話を読んでからの方がいいんじゃないかと思います。別人の目線だと時間の流れ方も違うし、「この時に実はこんなことがあったんだ」なんて新たな発見になったりします。そして、本編では主人公の感覚、想像でしかなかった部分が明らかにされることや全く触れられていなかった部分が表に現れてくることも興味深いものです。
少し前に読んで、とても面白かった小説にもう一つの物語があることを先日、知ったんです。今、すごく気になっています。そこにはまだ私が知らないことが沢山散りばめられているかと思うと、期待が膨らみます。早く読んでみたいです。

まるでノンフィクション

ふつう小説はフィクションのはずなんだけど、たまに実際の事故や事件を題材にした物語があります。それが題材になってると公言されているのかいないのか、そこはわからないんだけど、読んでたら明らかにそうだとわかるんです。けど、そもそもノンフィクションじゃなくて、勝手に小説にしてしまってもいいのかなってことなんですけど。でも、名前を出しているわけでもなし、単なる物語だと言えば何ら問題がないんでしょうか。そのあたりは一読者の私にはよくわかりません。
でも、先日も実はそんな小説を読んでいたんだけど、やっぱり内容が内容だけに緊迫します。まるで当時者になったような感覚になりますもの。けど、それぞれの立場での見方や考え方が描かれているから、よけい事実を追っているように思えるんですよね。思わず、本当はこうだったのかって思ってしまうんです。でも、冷静に考えてみたら、小説なんだから、「いやいや、これは作り話であって真実ではない」って思い直すんです。でも、ついつい新聞の記事のように受け取ってしまう自分がいます。だから、読みながら、またしても『そんな内情だったのか』なんて思ってしまって、はたと気づくんです。これは小説なんだって。
けど、作者はどうして事件の内情を知ってるんだろう。あ、これも違いますよね。取材で知ったかもしれないけど、全くの想像かもしれないですものね、あくまで物語ですから。

本を読む習慣

世の中には本の面白さを理解していない人もかなりいますよね。電車に乗ってるとけっこう読書をしている人はいますけど、全体からしたらやっぱりスマホを触っている人の方が断然多いです。そもそも読む習慣がないという場合もあるでしょう。子供の頃からその習慣があるならきっと今も習慣にしているだろうけど、そうでなかったなら急に変わるのは難しいのかもしれません。
けど、先日、新たに読書を習慣づけることを勧める記事を見かけたんです。ちょっとした空き時間に本のページを開くようにするといいって。でも、いきなり、そんな風に言われても、今までしていなかったことなんだから、急にはなかなか楽しめないかもしれません。だから、ハードルをうんと下げる必要があるんだそうです。喫煙者が禁煙するときに、たばこに手を伸ばす代わりにガムを噛むのと同じように、一日に何度となく開くフェイスブックの代わりに、短いセンテンスに区切られた本を読むことから始めればいいんだと提案してありました。そうすることで、2週間もすれば本を手にする時間がどんどん増えていくんだそうです。確かに、実績のある経営者やリーダーと言われている人たちは読書家です。そこから得るものは多いし、思考の仕方もきっと変わってくるんでしょうね。
職場には、本には全くと言っていいほど縁がないという男性がいます。ちょっと誘導してあげなきゃ。

おもしろ「土佐日記」解説

読書が好きだけど、専ら現代文で古典にはほとんど触れていません。でも、たまに小説の中に取り上げられていたり映画に取り上げられていると興味が湧きます。
先日、かの有名な『土佐日記』について、ある記事を読んだらすごく面白かったんです。記事の筆者の解説が楽しいったらないんです。学校で習った時のような解釈ではなくて、現代に当てはめたものだから本当に笑えました。記事を見かけた時『女装おじさんの旅日記』となってたから、一体どんな内容なのかと思って見たら『土佐日記』だったんです。たしかに、『土佐日記』は、「私は女だけど文章を書きますよ~」という書き出しでしたよね。でも、紀貫之は明らかに誰もが知る男性ですものね。当時は男性は漢字、女性はひらがなを使う文字のルールがあったから、貫之はひらがなでの文章を書くために女性になり切って書いたんだそうです。でも、そこには女性なら絶対にこんなことは言わないだろうという『おやじギャグ』や『ダジャレ』が散りばめられているんですって。筆者独自の現代語訳が、とびっきりの出来でした。思わず声に出して笑ってしまったんですもの。電車で読んでなくて良かったと思ってしまいました。昔の文学も教科書みたいな解釈ではなく、現代風に解釈すると面白さが倍増します。苦手な古典だけど、ちょっと足を踏み入れてみたくなりました。

映画化してほしい小説

映画化される小説やコミックって、どうやって決まるのかな。読者からの要望なのか、制作会社が撮ってみたいって思うのか、その辺のことは全く知らないんだけど、興味はあります。映画化が決まって、その評判を聞いて原作を読んでみることが結構あります。でも、小説を読んでいるうちに、これを映画化してほしいなって思うこともあるんです。人間模様が面白い場合は特にそう思います。それは、いつも読みながら物語の中の風景や状況に自分も溶け込んでいたり、すぐそばで見ているような感覚だったりするんです。けど、その情景の中にどんどん引き込まれる時には頭の中にある映像を引き出したいって強く思います。まるで、今まさに映画を観ているように思うことだってあります。そんな時には、スクリーンを頭の中に描いていて、スクリーン上のタイトル文字までイメージして見えることがあります。
この前、読んでた小説も映画にならないかなぁって思っています。ハッキリとタイトル文字が頭の中に浮かんでいます。時空を超えるストーリーだから絶対に楽しめると思うんですよね。登場人物の配役まで一部は決めています。って、「関係ないじゃん」って突っ込まれそうですけどね。でも、もし、本当にそうなったら、封切り早々劇場に観に行くことは間違いありません。