今は苦しくても、いつかは

相手側からしたら何気ない言葉だったとしても、受け取った側としてはものすごく傷ついてしまうような言葉だった……。生来の気質が神経質な私としては、こういうこと、よくあるんです。気にしすぎても辛いだけだと分かっているんですが、相手の言葉尻やら単語の選び方やらが気になって、何とも無神経に思えて、勘に触って、どうしようもない、という……。
物心つかない頃からこうだったようですから、半ば諦めていました。その手の自己啓発本や、自ら鈍感になるためのあれこれをエッセイなどで発表していらっしゃる小説家の方の本などを読んでみても、ちっとも身につきませんでした。
少しずつ改善されてきたような気になり始めたのは、もうすぐ○○歳、という区切りが近づいてきてから。一般的にはいい大人と目される歳です。あからさまに悪意を向けられたのでない限り、「まあ、いっかー」と流せることが多くなってきました。
そのことにふと気付いてから、かつて通りすぎてきた自己啓発本やら鬱系の青春小説などを読んでみると、その中でお説教されていたことを案外身に付けていることを発見しました。全部が全部ではなく、無意識にこびりついていたようなものがじわじわと溶けこんでいったような感じ、でしょうか。次の区切りの歳には、もっと楽になるのかなあと思うと、ちょっと楽しみです。

1度考えると止まらないこと

扇風機に顔を近づけ、「ワレワレハ、ウチュウジンダー」。子供の頃、友人とよくやっていました。今でもこの文化(?)が残っているらしいことを聞いて、とてもうれしく思いました。時の流れは待ってくれません(なんて言うと、途端に重い話のように感じますね)。自分たちがかつて楽しんだものが若い世代に受け継がれていると思うと、何と言いましょうか、ただ風化していくだけのもの――だけがこの世に存在するわけではないのだなあ、という感慨が湧くのです。ちょっと、いえ、すごく大げさですけれども。
今読んでいる小説なども、100年先、200年先にはどれだけのものが歴史に残っているのだろうなあ、なんて考えてしまうことがあります。記憶媒体が発達していますから、紙の本のように焼失したり、分散流出してしまうようなことはほぼなかろうと思うのですけれども。
私という個人も、後に何を残せるんだろうとか、宇宙規模で見たらノミやミジンコなんてレベルじゃないなあとか、色々考えてしまいます。考えても詮ないことだと分かっているのですが、ふとした瞬間にスイッチが入ると、もう止まりません。怖い、と感じることもあれば、それならそれで好き放題生きてやらあ、と気が大きくなることもあります。たまにはそんな時間も良いかな、と思います。