乙女心を救ってくれる本

心が疲れた時やなんだか不調な時に救ってくれる本があったら嬉しいですよね。友人や知人には「疲れた」とか「なんだか気持ちが浮かない」なんてことはあまり言いたくないものです。特別な理由などないことも多く、誰かに相談するとまでもいかない感じです。
先日、見かけたのは女子を救ってくれそうな本でした。たとえば、好きな歌詞が自分の心にすごく響いて、その歌を聴くと涙が出て来るなんてことがあるように、その本は、心にドンピシャと響く言葉で溢れているんです。それも、あえて全部ひらがなで書いてあるから、すごく優しい印象を与えてくれるのです。ふわっと包み込んでくれるようです。
誰かに声をかけてもらわなくても、それを読んだら心が少し軽くなって、ゆっくりと自分で自分を立ち上がらせることができそうなんです。
中には、『鋭い』と思うような指摘もあったりするから優しいばかりでなく、ちゃんと気づかせられることもあります。本当は自分でわかっていることでも、言葉にする勇気がなかったり、認める勇気がなかったり。そんなときにも背中を押してくれる一冊です。
心が晴れないときの処方箋としては最高の本です。お守り代わりに持っていたら、絶対に助けてくれそうです。こんな本に出会えたのは久しぶり。そのことだけでも、幸せが舞い降りた気分になれるから不思議です。

あれが原因で!?

先日、職場で掃除をしている時に、しゃがんでいる姿勢から立った瞬間に膝に痛みが走ったんです。ちょっとひねって立ち上がってしまったのか、変な力がかかったようでした。思わず「痛っ」って声を出してしまったから、近くにいた人たちから「大丈夫?」と声を掛けられてしまいました。けど、一瞬だけだったし、その後は気にしてなかったんです。歩くのも階段の昇り降りも全く違和感なんてなかったんですもの。でも、その日の夜、お風呂でしゃがんだりすると少し痛みがありました。そして、寝る前に読書をしようと棚から本を出そうとしたときです。ひょいっと前かがみになって本を取ろうとしたら、「あっ」膝に痛みが。なんだか悪い予感がしました。だから、早々に読書は切り上げて、早めに休むことにしました。
翌日、気になって整形外科に行きました。レントゲンを撮ってもらって、先生に診察をしてもらったんだけど、結局、ひねったときに膝を痛めてしまっていました。スポーツをしているときには、よくありがちなんだそうです。でも、私の場合、そうじゃないです。けど、驚きの事実があったんです。私は高校生のときに一度膝を亜脱臼していて、その時にいわゆる『おさら』が緩いとも言われていたんですけど、その過去の亜脱臼が今回に繋がったようなんです。高校生の時の怪我が原因? それも治ってからその後は全く問題もなかったのに。しばらく整形外科に通うことになってしまいました。まぁ、歩くことには支障はないから、不幸中の幸いだと思うしかないですよね。

それぞれの生き方

この前、小学生が書いたという自己啓発の本を紹介してる記事を読みました。著者が小学生で、それも自己啓発本って……驚き以外の何物でもありません。私も小学生の頃から読書や文章を書くことが好きだったけど、私が書いていたのは童話か詩か、いいところ、エッセイのような日記です。彼が本を書こうと思ったキッカケがこれまたスゴイ! 悩んでいた昔の自分にプレゼントする本を書きたいと思ったって。こんなこと思うなんて、ただ者ではありません。小学生なのに『昔の自分』って……そこは少し微笑ましいって思ったんだけど、実は小学校3年生の時にいじめにあってしまったようで、その頃のことを想って綴られているようです。そして、彼はそれ以来自宅での学習をしているそうです。なんとなく学校へ行ってなんとなく過ごしていることを考えたら、ずっと内容の濃い日々を送っているに違いありません。ルールを守ることは大事ですけど、そのルールに従うことがどんな時も100%正しいというわけでもないんだと思います。自分を守り、そして伸ばす方法は、もしかしたら、人それぞれなのかもしれません。自宅の学習を肯定しているわけじゃないけど、彼にはそれが合っているってことなんだと思います。世界の偉人と言われている人の中にも、同じような人がいますものね。
素晴らしいと評価されている彼が書いた本ももちろん読んでみたいと思いますけど、それとは別に『人それぞれのやり方』ということを考えさせられる記事でした。

甘えさせてくれる人

世の中には甘えるのが上手な人がいますよね。そんな人が嫌味もなくサラッとお願いごとをしたりするのを目の前にした時には、本当に羨ましくなってしまいます。私もあんな風に上手に甘えられたらいいのにって。どちらかというと、私はそういうことが苦手です。あえて、「よしっ」と意識をしてしまうから、なんだか取ってつけたような感じになってしまって、不自然極まりないんです。
今、読んでる小説の主人公も甘えることが苦手な女性です。でも、同い年の青年との出会いがあって、彼にだけは甘えられると言うんです。彼が100%自分を受け入れてくれて100%甘えさせてくれると出会ったその日から感じ始める彼女の心理描写が、なんとも艶めかしいんです。表に出してはいけないような心の奥底の声が文字となって目に飛び込んでくるからかもしれません。彼女と同い年の青年は、感情を露わにする人ではなく、常に冷静な、それでいて温かいと表現してあります。いけない事をしたときには、きっちり叱ってくれるし、褒めるときには頭に手を乗せてくれる。それは天にも昇るような居心地の良さなんです。でも、その感覚がなんとなく私にはわかります。そんな風に扱ってもらえて心がトロけそうな感覚になったことが私もあるんです。物語がどんな風に展開していくのか、今、一番興味のあることです。

よりよく生きるには

以前、読んだ本にすごく共感できるものがありました。人を動かすのも自分を高めるのも、全ては質問力にかかっているという内容の本です。科学的な発明や発見だって、「あれはどうなってるんだろう」「どうしてあんな風になるんだろう」というところからスタートしているというのです。実は先日、その本にも関連するコラムを見かけたんです。それは脳科学の先生が書かれたコラムでした。そこに書いてあったのは、世の中で尊いと思われていることは、はき違えられているというのです。答えられる人が尊いと思われがちだけど、実はそうではないというのです。答えよりも的確な質問をすることの方が尊いのだと。そこにも、ニュートンが万有引力を発見できたのは、リンゴが木から落ちることに自らが注目したからだと。物事に対していくら素晴らしい答えができたとしても、それだけでは絶対に進歩はないと書いてあります。学校教育では何事も答えることができる生徒が評価されがちだけど、良い質問ができる生徒がもっと評価されるべきなんですって。良い質問ができれば問題は半分解けたも同然だと書いてありました。それは好奇心の表れだとも書いてありました。確かに、前向きでエネルギーに満ちたことですものね。だから、よりよく生きようと思えば、良い質問をすることが大事なんだって。

本を読む習慣

世の中には本の面白さを理解していない人もかなりいますよね。電車に乗ってるとけっこう読書をしている人はいますけど、全体からしたらやっぱりスマホを触っている人の方が断然多いです。そもそも読む習慣がないという場合もあるでしょう。子供の頃からその習慣があるならきっと今も習慣にしているだろうけど、そうでなかったなら急に変わるのは難しいのかもしれません。
けど、先日、新たに読書を習慣づけることを勧める記事を見かけたんです。ちょっとした空き時間に本のページを開くようにするといいって。でも、いきなり、そんな風に言われても、今までしていなかったことなんだから、急にはなかなか楽しめないかもしれません。だから、ハードルをうんと下げる必要があるんだそうです。喫煙者が禁煙するときに、たばこに手を伸ばす代わりにガムを噛むのと同じように、一日に何度となく開くフェイスブックの代わりに、短いセンテンスに区切られた本を読むことから始めればいいんだと提案してありました。そうすることで、2週間もすれば本を手にする時間がどんどん増えていくんだそうです。確かに、実績のある経営者やリーダーと言われている人たちは読書家です。そこから得るものは多いし、思考の仕方もきっと変わってくるんでしょうね。
職場には、本には全くと言っていいほど縁がないという男性がいます。ちょっと誘導してあげなきゃ。

ボーっと過ごしてみたい

旅の本を見たり、テレビでホテルや観光地の紹介を見たりすると、やっぱり行ってみたいなって思いますよね。何にもしないでボーっと過ごせたらどんなにイイかなって。海外の海辺のハンモックで風を感じながら読書をするなんてホントに憧れます。ホテルの部屋で美しい景色を眺めながらダラダラ一日過ごすなんていうのも、魅力的です。いつか実行してみたいって思ってはいるんだけど、冷静に考えてみたら、私には無理なんだと思います。なぜなら、ボーっと一日を過ごすことに憧れてはいるものの、何もしないで時間を過ごすことが出来ないんですもの。時間を気にせずに読書を楽しみたいって思ってるくせに、じゃあ、何も予定のない日に本当に他のことをせずに一日中ただ本を読んで過ごすかというと、まずそれはないです。あれして、これして……そして、やっと読書の時間を確保する、なんてことになるんです。でも、これって、あくまで自分でそうやっちゃってるってことなんですよね。旅にでれば、何もしないという選択はしようと思えば可能です。けど、絶対に、ここに行ってあそこに行って、と考えてしまいます。よく『じっとしていられない人だね』なんて言われてしまいます。今度、本気で勇気を振り絞って、何もしないという選択をしてみようかな。好きな小説を読んで、疲れたらお昼寝して、好きなものを食べて……すごく贅沢な時間の過ごし方です。一年に一度くらいはやってみてもいいかも、です。

懐かしい詩

先日、たまたま読んだコラムに『山村暮鳥』の事が書いてありました。初めすぐにはどんな人だか思い出せなかったんです。もちろん名の知れた詩人だということはわかったんですけどね。そしたら、『雲』という詩が載っていて「おーい、雲よ」というあの書き出しを見て、「そうだった、そうだった」と思い出しました。初めてその詩を知ったのは、たしか国語の教科書だったと思います。学校で習ったときには、そんなに感動もしなかったように記憶しています。あまりに簡単で短い詩だから優れた作品だとは全く思えなかったんです。でも、先日、読んだときには、なんて素晴らしいんだろうって感動でいっぱいになりました。言葉の一つ一つが心の中にスーッと入って来たんです。コラムに載っていたいくつかの作品はどれも、短く何気ない言葉が並んでいるのに、そのすべてが優しく体中に淡く沁み渡っていくものでした。
彼は明治から大正時代の詩人で児童文学者です。と言っても、私は児童文学者だったことは今まで知りませんでした。童話や童謡を書いているんです。そして、小説や随筆までありました。今まで教科書の中でしか名前を知らなかった人なのに、急に興味が湧いてきました。もっともっと色んな作品を読んでみたいって思ったんです。本当に優れた作品は時代には関係ないんだと思います。

本音と建て前

この前読んでた小説に何度も出て来た『本音と建て前』。細かい心理描写が独特で人間の心の奥をすごくよく映し出してるなって感じられるものでした。だから、「心の中ではこう思うけど、表向きにはこう言っておく」なんていう表現が沢山あって、それ自体は賛同しがたいけど、大人の社会ではよくありがちな事だと思います。社会はある意味、それで成り立っているとも言えます。けど、そのことをどこかで公表してしまうと、そこから問題が発生したり誰かを傷つけたりするかもしれません。
私はまだ幼い、幼稚園の頃に、大人には『本音と建て前』があるんだと知ってしまった出来事がありました。もちろん、そのときにはそんな難しい言葉は知りません。でも、「大人の言うことは信じられない」と思ったんです。何があったかと言うと、その頃、近所の私より年下の子でよく遊んでいた子がいたんです。名前は忘れてしまいました。幼い私は遊びに行くときに時間など気にしていなかったから、ちょうどお昼ご飯くらいのこともあったようです。遊んでいたらその子のお母さんが「お昼ご飯をいっしょに食べよう」と言ってくれていたんです。今でも覚えているのが、カットしたキュウリにマヨネーズがかかったものです。おかずは他にもあったと思うんだけど、家ではキュウリをそんな風に食べていなかった私には珍しくて嬉しかったんです。でも、しばらくしたら母から遊びに行っちゃダメって言われたんです。そして、母の口から出てきたのは驚きの言葉でした。「○○ちゃんのお母さんがお昼ご飯のときに遊びに来るから、ごはんの用意をしないといけなくて大変だ」って近所の人に話してるって。「いっしょに食べよう」って言ってくれてたのにって、幼いながらショックでした。そして、私は大人には『本音と建て前』があると知ったのです。キュウリは今も好きだけど、時々、思い出すのです。だから、キュウリは私にとっては『本音と建て前の味』なんです。

おもしろ「土佐日記」解説

読書が好きだけど、専ら現代文で古典にはほとんど触れていません。でも、たまに小説の中に取り上げられていたり映画に取り上げられていると興味が湧きます。
先日、かの有名な『土佐日記』について、ある記事を読んだらすごく面白かったんです。記事の筆者の解説が楽しいったらないんです。学校で習った時のような解釈ではなくて、現代に当てはめたものだから本当に笑えました。記事を見かけた時『女装おじさんの旅日記』となってたから、一体どんな内容なのかと思って見たら『土佐日記』だったんです。たしかに、『土佐日記』は、「私は女だけど文章を書きますよ~」という書き出しでしたよね。でも、紀貫之は明らかに誰もが知る男性ですものね。当時は男性は漢字、女性はひらがなを使う文字のルールがあったから、貫之はひらがなでの文章を書くために女性になり切って書いたんだそうです。でも、そこには女性なら絶対にこんなことは言わないだろうという『おやじギャグ』や『ダジャレ』が散りばめられているんですって。筆者独自の現代語訳が、とびっきりの出来でした。思わず声に出して笑ってしまったんですもの。電車で読んでなくて良かったと思ってしまいました。昔の文学も教科書みたいな解釈ではなく、現代風に解釈すると面白さが倍増します。苦手な古典だけど、ちょっと足を踏み入れてみたくなりました。