穏やかな時間とほのぼのとした小説を読んで

ほのぼのとした小説がありました。私はそれを表紙があまりに可愛らしくて手にとったのですが、本当に内容もほのぼのとしていてよかったです。ミステリーだったのですが、主人公がマイペースで、コンビを組んでいる相手もしっかりしていそうで時折マイペース。独特のテンポがふたりの間にはあって二人にとってはそれが普通の生活。だから、迷わないし笑って物事を流していける。泣けるというより、そうだよな、これだけ気を抜いていても許されるよなぁというほっこりした気持ちになります。気が抜けているというか、肩の力を抜いて生活してもいいんだよという優しいメッセージに聞こえるのですよね。ほのぼのとした小説を書くのが好きなんです、とその作家さんはインタビューで仰っていました。そこまでシリアスな話は書けない、とも言っていたでしょうか。確かにシリアスよりのんびりしたほのぼのとしたお話の方がその方の文章は映えます。だからこそあたたかい気持ちにもなるのでしょうね。作家さん本人の人柄はわかりませんが、作風はわかります。その作風の温かさに触れた時、心が温かくなる。そんなことが、とてもうれしいです。穏やかな時間を過ごしながら、もっとたくさんのこういった本を読んでいきたいです。

気づけばこんなに経っていた

先日、近所の県立図書館に本を返却に行ったところ、動物のパペットをたくさんつけた男子学生たちに遭遇しました。近所の教育学部がある大学があるので、きっとそこの学生さんなんだと思います。私が子どものころ、この図書館の子ども図書室やレクレーションルームに通っていたときに、よくそこの大学の学生さんが、読み聞かせや紙芝居をやってくれたことを思い出しました。子ども用のものがたくさんそろっている図書館って、お母さんたちにもありがたいですよね。紙芝居は一人一冊までしか借りることが出来なかったので、厳選した一冊を、貸出期限の間何回も家で楽しんでいた思い出があります。今でもまだ一冊制限なのかな…とか、色々な想いを馳せました。月日が流れるのはとても早いですね。ついこの間まで(といってしまうのは、さすがに言い過ぎかもしれませんが)、私はあの大学生たちに、読み聞かせをしてもらう立場でいたような気がするのに、ふと気づけば、それらを懐かしい気持ちで眺める立場になっているのです。あのころは「大人の人が読む難しい本が並んでいるエリア」にも、読みたい本を求めて入っていくことが出来るし、「大人だとひょいひょい使えるパソコン」と思っていた検索機も、使いこなせるようになっているのですから。

お姉さんと私

一回りほど年齢が離れた、親戚のお姉さんがいます。お互い、他に年の近い親戚がいなかったのもあって、子どものころから仲良くしていました。一回りが「年が近い」とは言えないという人もいるので、私の方が一方的に懐いているように見える感は否めませんが…。それでも、本当に子どもだったころと比べれば、少しずつ共有出来る話題や感覚も増えて来ているので、偶に会って食事をしたり、買い物をしたり、おしゃべりをしたりするのはとても楽しいです。お互いに、好きなものも似ているんですよね。好きな作家や、音楽のジャンルや、甘いケーキなど。お姉さんの方が、海の近くに住んでいるので、二人でポットにお茶をいれて、海辺でゆったり読書をしたこともあります(長続きはしませんでした。潮風がキツいし、落ち着いていられなかったのです。二人の憧れが似ていたというだけで、突きつけられた現実は想像とは違ってしまっていました。割とショックでしたが)。お互いにメールや電話はあまりマメな方ではないのですが、それでも、SNSツールでたまに交流したりします。便利でいいですね。こういう付き合いがひとつあると、毎日が楽しく、ふと疲れた日にも息抜きが出来ていいなと思っています。

朝までありがとう本屋さん

私が今住んでいる家の近所に、朝までやっている本屋さんがあります。朝の5時とか、早い日で4時とか。以前住んでいた地方は、夜の10時くらいには絶対に本屋さんが閉まってしまっていたので、とても嬉しかったです。終電で帰宅するときも、帰り道に本屋さんの明かりがついていると、ついつい立ち寄ってしまうんです。一刻も早く自宅に返って、ごはんを食べてお風呂に入って、眠ってしまいたいような、そんな疲れきった日でも、本屋さんにはつい立ち寄ってしまいます。何を買うわけでもなく、本棚を見て回っているだけで、一日でギリギリまですり減った体力ゲージが、ほんの少しだけ回復するような気がするのです。体力というよりは、気力なのかもしれませんね。病は気からと言いますし。本屋さんに立ち寄ること出来ないような、へとへとに疲れ切った日なんかは、そこに開いている本屋さんがあるというだけで救われるときもあります。これは私が本が好きだからだとも思いますが、そういう何か心の支えになるものって、誰しもあるものだろうと思っていますよ。夜中に、ふと「新刊が出ていたんだ!今すぐ読みたい!」と思ったとき、朝までやってくれている本屋さんって、とてもありがたいですしね。

何度も何度も読み返す

一番お気に入りの本って、何度も読み返してしまいます。もう展開も分かっているし、どの辺りでどんな風に場面がかわるかも知っているんです。下手したら、登場人物のセリフだって、ソラで言えてしまう部分があるくらいです。もちろん、全部のページというわけにはいきませんが、ほとんどそれに近い状態のものもあります。それでも何度も読み返してしまうのは、一体どうしてなんでしょう。未だに、手にとってページを開けば、わくわくしてしまうのはなんでなんでしょう。ふと、まだこの本を一度も読んだことがない人のことが羨ましくなることがあります。私はもう知ってしまっている展開を、その人はまったく知らないわけですから、いくらでも楽しむことが出来るんだなと思うんです。悔しい気持ちもあります。自分は既に読んでしまっているというだけなのに、ちょっとおかしな話だとも思うんですが…。「まだこの楽しみを味わえるなんていいな」というやつです。でも反対に、何度も読み込んで、それでもまだ読みたいというこの楽しみは、初めて開く人には決して味わうことが出来ないものですよね。人によって、場合によって、様々な楽しみ方があるのはとても素敵で、楽しいことだと思います。

やるせない最終回

ずっと好きだったシリーズや続きものが終わってしまうと、どんな形であれ、ものすごく寂しい気持ちになります。キレイな形で終わっていたら、「良い作品だったな」と思いつつ、やっぱり未練があって、魂が抜けたような気持ちになってしまうこともあります。不本意ながら、話の終わり方が納得出来るものではなくて、「どうしてこんなことになっちゃったの?」と悲しい気持ちになってしまうこともあります。こんなときもやっぱり、魂が抜けたような気持ちになってしまうんですけどね。作者に感情移入するか、作品の感情移入するかでまた話は変わって来ますが、たまに「どうしてこんなに好きな作品を、こんな形で終わらせてしまうんだ」という気持ちを抱いたりもします。一見憤りのようなのですが、やっぱり悲しみなんですよね。打ち切りという制度も存在してしまっているので、不本意ながらその結末にならざるを得なかった作品というのもあるわけで…。力量不足と言ってしまえばそれまでですが、そんなことばかりでもないですもんね。小説にしろマンガにしろ、運やタイミングも結構ありますから、もちろんそれらを組み込んだものを作って、「うんも実力のうち」と言えればいいのでしょうけれど…。

本屋のバイトは重労働

学生時代の友人で、小柄で華奢な女の子がいたのですが、その子がアルバイトを始めてから、どんどん頼もしくなっていったことを、最近よく思い出します。新しく行きつけの本屋さんが出来て、そこにいる学生バイトさんの姿をよく見るようになったため、思い出す機会が増えたのかもしれません。
私の友人は、腕も細く、力仕事にもあまり向いていない子だったのですが、本屋のバイトとは結構な力作業が多いそうです。もちろん、男性が出来るところは男性がやるそうですが、女性だからと言って、まったく力のいらないことだけやっていればいいというわけにはいかないことも多かったそうです。当然ですよね、仕事ですし、バイト生は女性も男性も同じ額の時給をもらっているわけですから。
最初のころはよく愚痴を言っていた彼女でしたが、バイトを始めて三か月もすると、「慣れてきた」と言って、平気で段ボールをひょいひょい持ち上げるようになっていました。特別筋トレをしなくても、普段使っていれば、それ自体がトレーニングになっているようでした。やれば人間、ある程度のことは出来るものなんですね。ほんの少し力こぶが出来るようになったんだと笑っていたのもよく思い出します。

水ばかり飲んでしまうんです

昔から、試験勉強のときも、友達と長話をしているときも、頻繁に飲みものを飲んでいました。趣味の読書をしているときも、家族でテレビを観ているときも、自分でお茶を入れたり、ジュースを出してきたりして、いつも飲んでいるのでした。途中からトイレに行くようになって、内容に集中出来なくなってしまったりもするのですが、熱中してのめり込むほど、水分が必要になってくるのです…。特別汗っかきなわけでもないのですが、これはもうクセでしょうか?
代謝が悪いのかな~と悩むこともあります。全体的に身体のむくみが気になることは多いんですよね。朝顔色が悪かったり、メイクノリが悪かったりして、あきらかに老廃物の排出に失敗しているな~と感じるときって、女性はありませんか?私の場合は、それがしょっちゅうなんです。
健康診断を受けても、至って健康体なので、今のところ何も問題はないんですけど…特別喉が渇いて水を飲んでしまうというわけではないので、飲まないように注意して、クセにすればいいだけなんですよね…という答えは簡単に出せているのですが、なかなか実行に移せないところが駄目なところだと思っています。
手元に水がない状態だと、逆に集中出来なくなってしまうこの状態から、まずは脱却しなくてはいけませんね…。

作者の気持ちと読者の気持ち

高校生のころ、国語の授業で「テクスト論に作者の意見を入れてはいけない」と言われました。詳細な文学論は知らないのですが、しばしば私たちは、国語のテストのとき「作者の気持ちなんてないかもしれない。」「ただ単に、なんとなく書いた物語かもしれないのに、ほんの些細なところから意味を見出そうとするなんて…」と、(勉強の辛さを誤魔化す面もあったのでしょうが)屁理屈をこねていました。今でも結構言いますよね。
ただ、それは正しいことではないのだそうです。もちろん、作者の気持ちを考えることも、文学研究者にとっては必要なことですが、あくまでその場所で観ているのは作品論。その場合、作品をどう解釈するのかは、読者の自由なんだそうです。
それを聞いたとき、こじつけのように解釈をすることの嫌気から、なんとなく解放されたような気持ちになりました。
先日、好きな現代作家のトークセッションに行ったとき、「作者が作品を発表した時点で、作品は作者の手を離れるから、どんな解釈をしてもらっても構わない」と言っている人がいて、「あのときの先生は、これが言いたかったんだな」と感じました。そこに込めている重いと、受け取る方の思いが、必ずしも重ならなくてもいいのだと言う人もいるんですね。

シチュエーション革命時代

ひとり一台、携帯電話を持つのは当然の時代になって来ましたよね。子どもが持っている年齢も、年々低下しているようになっています。小学生も平気で持ち歩いていますし、そうではないと困る場合も増えて来ましたよね。スマートフォンがどんどん普及して来ているので、一人一台パソコン端末を持っているような感覚になる時代も近いでしょう。所謂「田舎」と呼ばれる地域で、携帯の電波が悪かったところも、業者がどんどん整備するようになりました。今日び、インターネット環境がまったくないスポットを探すのはなかなか困難なことになって来ました。
そのうち、推理小説のトリックなどで、「山奥に取り残されて、連絡がつかない」とか「陸の孤島になって助けが来ない」なんてシチュエーションは、使えなくなってきてしまうんでしょうね。「電話線が切られている」なんて意味が分からない世代が出てくる可能性は非常に高いですし…。
そうするとまた、時代に即したトリックやシチュエーションが生まれてくるのでしょう。「妨害電波が大量に飛んでいる」とかでしょうか…時代の移りかわりに合わせて、変わっていく物語を見るのも楽しいだろうなと、どきどきしています。いつまでも生きて、そういうものを読み続けていけたらいいのに…と時々思っています。