作者の気持ちと読者の気持ち

高校生のころ、国語の授業で「テクスト論に作者の意見を入れてはいけない」と言われました。詳細な文学論は知らないのですが、しばしば私たちは、国語のテストのとき「作者の気持ちなんてないかもしれない。」「ただ単に、なんとなく書いた物語かもしれないのに、ほんの些細なところから意味を見出そうとするなんて…」と、(勉強の辛さを誤魔化す面もあったのでしょうが)屁理屈をこねていました。今でも結構言いますよね。
ただ、それは正しいことではないのだそうです。もちろん、作者の気持ちを考えることも、文学研究者にとっては必要なことですが、あくまでその場所で観ているのは作品論。その場合、作品をどう解釈するのかは、読者の自由なんだそうです。
それを聞いたとき、こじつけのように解釈をすることの嫌気から、なんとなく解放されたような気持ちになりました。
先日、好きな現代作家のトークセッションに行ったとき、「作者が作品を発表した時点で、作品は作者の手を離れるから、どんな解釈をしてもらっても構わない」と言っている人がいて、「あのときの先生は、これが言いたかったんだな」と感じました。そこに込めている重いと、受け取る方の思いが、必ずしも重ならなくてもいいのだと言う人もいるんですね。

シチュエーション革命時代

ひとり一台、携帯電話を持つのは当然の時代になって来ましたよね。子どもが持っている年齢も、年々低下しているようになっています。小学生も平気で持ち歩いていますし、そうではないと困る場合も増えて来ましたよね。スマートフォンがどんどん普及して来ているので、一人一台パソコン端末を持っているような感覚になる時代も近いでしょう。所謂「田舎」と呼ばれる地域で、携帯の電波が悪かったところも、業者がどんどん整備するようになりました。今日び、インターネット環境がまったくないスポットを探すのはなかなか困難なことになって来ました。
そのうち、推理小説のトリックなどで、「山奥に取り残されて、連絡がつかない」とか「陸の孤島になって助けが来ない」なんてシチュエーションは、使えなくなってきてしまうんでしょうね。「電話線が切られている」なんて意味が分からない世代が出てくる可能性は非常に高いですし…。
そうするとまた、時代に即したトリックやシチュエーションが生まれてくるのでしょう。「妨害電波が大量に飛んでいる」とかでしょうか…時代の移りかわりに合わせて、変わっていく物語を見るのも楽しいだろうなと、どきどきしています。いつまでも生きて、そういうものを読み続けていけたらいいのに…と時々思っています。