作者の気持ちと読者の気持ち

高校生のころ、国語の授業で「テクスト論に作者の意見を入れてはいけない」と言われました。詳細な文学論は知らないのですが、しばしば私たちは、国語のテストのとき「作者の気持ちなんてないかもしれない。」「ただ単に、なんとなく書いた物語かもしれないのに、ほんの些細なところから意味を見出そうとするなんて…」と、(勉強の辛さを誤魔化す面もあったのでしょうが)屁理屈をこねていました。今でも結構言いますよね。
ただ、それは正しいことではないのだそうです。もちろん、作者の気持ちを考えることも、文学研究者にとっては必要なことですが、あくまでその場所で観ているのは作品論。その場合、作品をどう解釈するのかは、読者の自由なんだそうです。
それを聞いたとき、こじつけのように解釈をすることの嫌気から、なんとなく解放されたような気持ちになりました。
先日、好きな現代作家のトークセッションに行ったとき、「作者が作品を発表した時点で、作品は作者の手を離れるから、どんな解釈をしてもらっても構わない」と言っている人がいて、「あのときの先生は、これが言いたかったんだな」と感じました。そこに込めている重いと、受け取る方の思いが、必ずしも重ならなくてもいいのだと言う人もいるんですね。