夜行バスのトイレ

ちょっと意外というか興味深い記事を見かけたんです。それは、長距離の夜行バスについての記事です。そして、その内容はというと、『夜行バスにトイレは必要かどうか』というタイトルだったんです。私は今までに何度か夜行バスを利用していますけど、トイレはついていて当たり前だと思っていました。途中のサービスエリアで休憩はあるにしても、車内にないとなるとなんだか不安な気がします。まぁ、今までにバスを利用したときに車内で使ったかどうかというと、使ってはいないんですけどね。その記事にはあるバス会社の人のお話が載っていたんだけど、その会社ではもともと標準仕様でトイレがついている車両を除いては、あえて設けていないんだとか。なぜなら、以前、女性のお客様が多く乗られているときに、臭いや音が気になるとの声もあり、恥ずかしいから使わないと言われることも多かったんだそうです。そして、現に同料金でトイレ付きとトイレ付きでない車両を販売をしたところ、付いている方が売れ残ったというんです。ただ、昔に比べて、今は利用者の年齢層もかなり広がってきているから、そのあたりは再考の余地があるとのお話でした。それにしても、考え方は人によって違いますね。それでも、私はやっぱり保険として付いていた方が安心かなぁ。

まるでロボットな一日

先日、久々に寝違えてしまいました。朝、起きたら「痛っ」って左を向けなかったんです。普通に寝ていたはずなんだけどな。そもそも寝違えってどうしてなるんでしょうね。おかしな方向を向いていたんでしょうか。そこがわからないから、いつも不思議だなって思っています。そして、「あぁ、やっちゃった」と思うわけなんです。
先日は仕事に行かなきゃダメなのに、さっさと準備ができないんです。やっぱり首って大事なんですね。そこが調子悪いというだけで、動作がスムーズじゃないんです。動かさなければ痛くはないけど、違和感は満載です。週末だったから運よく電車には座ることができました。足や腰じゃないから座ってても立っててもあんまり関係なかったのかもしれませんけど。でも、気分には影響します。バッグからそろそろと本を出しました。ちょっとしたことで痛みが走りますもの。けど、意外にも読書の体勢は全然平気でした。良かった。
でも、事件は起こりました。乗り換え駅に着いたときです。本をバッグにしまってから無意識に車窓からホームの方を見てしまったんです。思いっきり首をひねって。一気に来た痛みに「うーっ」と心の中で叫びました。寝違えてることを完全に忘れてしまっていました。
職場に着くころには、首だけでなく肩にまで違和感が広がっていました。その日は一日中、まるでロボットのような動きでした。だって、正面にしか顔を向けることができなかったんですもの。

美味しい小説

小説には色んな種類があって、中には料理や食べ物が題材になっているものがあります。読んでるだけで、その料理が目に見えてきたり、いい匂いがしてきたりします。もちろん、自分が知らない料理は勝手な想像をするわけだから、本当の物とは異なったものをイメージしているときもあるとは思うんですけどね。今、読みかけている小説もそうなんです。京都が舞台なんだけど、エピソードごとに何かしらのお料理や食べ物が出て来ます。京料理もたくさん登場するから、私の頭の中は勝手な想像といわゆる『はんなり』したイメージが出来上がります。物語は衝撃の事件があるわけでもなく、小川が流れていくような感じで優しく穏やかに進んでいくんです。こういう小説ってヘタすると退屈だったりするのに、この物語は全然退屈ではありません。美味しいご馳走をゆっくりと味わうように、登場人物の心の通い合う様子や心の動きを楽しめるんです。たまには、ドキドキやワクワクでのめり込むような物語ではなく、ゆったりと癒されるようなものもいいですね。そんな中では大事件じゃなくて、ほんの小さな出来事が心をつかんで止まないんです。まだ読み始めたばかりだから、読破するにはもう少し時間がかかりそうです。でも、もう完全にハマっています。だから、これからの展開が楽しみで仕方がありません。

人は思い通りにはならない

先日、読んだ記事にこんなことが書いてありました。『人は人生という学校に来ている』って。そして、そこで学ぶことは途轍もなく時間がかかるものなんだって。だから、誰かの振る舞いにいちいち感情的になるべきではないんですって。自然の流れに任せておけばいいんです。学びの期間と考えれば、だんだん賢くなっていくものなんです。確かに、世の中には色んな人がいます。私なんかは偉そうに誰かに注意なんてできないけど、職場でも上司から注意されてもなかなか態度を改めることができない人がいます。けど、誰に対しても目くじらを立てるべきじゃないらしいんです。考え方によれば、それは正しいって私は思います。なぜなら、以前に読んだ本に書いてあったんだけど、他人は思い通りにはならないものだって。たとえ家族でもそうで、それが子供であっても赤ちゃんであってもそうなんです。一個人だから、自分の思いや考えがあるんです。思い通りにできるのは自分自身だけなんです。これって、本当にそうですよね。誰かに自分の都合のいいように変わってもらおうなんて思っても絶対に無理なことで、できることは自分が変わることなんです。自分が変わる努力をして、少しでも人から尊敬されて愛されるように努力することが、何事も上手く行く近道で、きっと一番大事な事なんだと思います。

医療小説いろいろ

先日、医療小説ばかりを紹介している記事を雑誌で見かけたんです。かなりの数を紹介してあって、なんだかそれだけでお腹いっぱいになってしまいそうな勢いでした。なぜって、医療小説自体が軽くサラサラと読めるものではなく、どちらかというと重いテーマが多く、専門用語も多いから、ちょっと気合がいる感じがします。私はミステリー要素があるものや、若干コメディタッチの物の方が好きです。本当にずっしりと重たいものは気軽には読めないからちょっと苦手なんです。なんだか体力消耗してしまいますものね。
けど、そこに紹介されている作品には、映画化されたものや本屋大賞などの受賞作もあって、大ヒット作品もありました。医療って、人が生きて行くうえで切っても切れないものだから、みんな興味があるんですよね。そして、なにかと、問題や事件にもなりやすいですしね。
また、実際の医療現場のことは一般の人にはわからないことが多いものです。だから、小説を読んで、その立場の人のことを理解したり、考えさせられたりするものです。読むほどに専門知識が増えていくから、誰かから、「どうして、全く関係ない仕事をしているのに、そんなに医療について詳しいの?」って尋ねられるかもしれません。もし、そうなったら、ちょっと胸を張って答えてしまいそうです。読書の賜物だって。ま、頭でっかちに過ぎませんけどね。

回想した日

先日、電車で本を読んでいたら、こんな場面があったんです。主人公が子供の頃のことを回想する場面です。母親についた嘘を問い詰められて、泣きながら本当のことを話す場面です。でも、そこには親の愛情がすごくよく表れているんです。そして、主人公はそのことを大人になった今でも母親とのエピソードの中で何より心に残っているんです。それは自分がついた嘘への罪の意識からかもしれません。
実は私にもよく似た経験があるんです。そして、やっぱり同じように今でも罪の意識もありますし、幼い日の出来事なのに鮮明に覚えているんです。それは私が小学校の低学年の頃のことです。学校からの帰り道にすごくキレイなお花畑があったんです。幼いながらも、それは誰かが作っているということはわかっていました。でも、あまりにキレイだったから、つい出来心でいくつかを摘み取ってしまったんです。家に持って帰ってどこかに飾ろうと思っていました。もちろん、道端の草花じゃないことはすぐにバレます。「そのお花、どうしたの?」と聞かれた私は、お花畑のおばさんにもらったと嘘をつきました。そしたら、母は「それは良かったわね。でも、それなら一緒にお礼に行きましょう」と言ったのです。それは困ります。勝手に摘み取ったんですから。よく覚えてないけど、はぐらかそうと何か言ったと思いますけど、わかっていたんでしょうね。結局、白状して一緒に謝りに行きました。でも、母は頭ごなしに叱ったりしませんでした。だからこそ余計に自分がいけないことをしたんだと反省したんです。それは忘れることができない出来事として今でも心に残っています。

絆は永遠

この前,読んだ本のラストに書かれていた言葉がすごく心に残ったんです。『死』は必ず誰にでも訪れます。生あるもの全てに。人はそれぞれに寿命があって、そのタイミングが違います。運命は残酷だなって思うこともあります。
でも、その本では登場人物みんなが、もう会うことができないけれど心から大切だと思っている人の写真をそれぞれ持ち寄って、その人についての想いを語ります。自分の母親や父親、妻や兄弟の写真などを真ん中に飾って、懐かしい想いを共有するんです。一人で写真を見ていたら涙が溢れてくるかもしれません。でも、仲間がいるから、みんなそれぞれに大事な人がいるのだから、湿っぽくならないんです。そして、主人公は「亡くなった人を思い出すことは悪くない」と話します。そういえば、私も高校の同級生で若くして亡くなった友人がいます。同級生が集まった時には、必ず彼の話がでます。ただ懐かしむだけでなく、みんな、彼がそこにいるかのようにからかうようなことを言ったり、悪口を言ったりします。そして、笑い合うんです。どれだけ彼がみんなに好かれていたのかがわかります。
その本のラストの言葉。それは『死は命を途絶えさせるけど、その絆を途絶えさせることはできない』というものです。本当に心に響く一節だし、自分自身の体験からも体中に沁み渡る言葉です。

やっぱり気になる

先日の朝の通勤時のことです。その日は朝と言ってもかなりゆっくりの出勤でした。だから電車も座ることができました。でも、私の予想ではもっと空いてるかと思っていたんだけど、そうでもありませんでした。私と同じように時間差での出勤の人も結構いるのかもしれません。見渡してみると、これからお仕事らしき人の方が多かったんですもの。その日はお天気も良かったから気分も軽く小説を読み始めました。と同時くらいに隣の女性がバッグからポーチを取り出してお化粧を始めるようでした。ページに視線を落としていても視界の隅っこに入って来たんです。時々、車内でお化粧している女性を見かけることもあるので、そんなに気にしないつもりだったんだけど、その日はそうはいきませんでした。だって、ピンで前髪を留めて、なにやらクリームらしきものを塗り始めたんですもの。「そこから?」と、これには少し驚きました。まるで自分の部屋にいるかのように、次々と手際よくこなして行くんです。もちろん、マジマジを見ることはできないから、あくまで横目で確認といった感じだったんですけどね。私は乗り換え駅について降りたんだけど、その時点でまだ彼女は終わっていませんでした。マスカラあたりだったと思うから、おそらく終盤だとは思いますけど。結局、私は読書どころではありませんでした。けど、これって、やっぱり論争になるのが分かるような気がしました。

お金をかけない便利グッズ

よく雑誌には便利な商品が紹介されています。そして、そんなものを目にすると、やっぱり欲しくなっちゃいます。それがあれば楽ちんだとか時間の短縮になるに違いないって思うんです。けど、意外にも買ったものの、全く使ってない物があることも事実なんです。そこが私のいけないところです。特にお掃除グッズに多い気がします。休みの日に使ってみよう、なんて思うんですけど、なかなかそのタイミングがないというか、そこまでのお掃除を普段していないというか。情けないですけど。
でも、先日、雑誌で見たものは絶対にイイと思いました。それはテレビドラマの中で紹介されていたものらしいんだけど、ゴム手袋に軍手をかぶせると、そのまま素手の感覚で色んなところが掃除できるという物です。トイレだってブラインドだって、なんだって平気なんですって。そして、汚れた軍手は処分して新しい物に替えるだけなんです。これは絶対にイイ! よしっと気合を入れて準備しなくても、普段にちょこちょこっと使うのにももってこいです。ゴム手袋に軍手をセットして、すぐに取り出せる場所に置いておけばいいんですよね。「今度こそ」と、なんだか嬉しくなってしまいました。けど、まずは軍手を買ってくるところからなんですけどね。

7分間のおもてなし

先日、こんな記事を見かけました。新幹線の清掃に関する記事です。その清掃が神業だというんです。新幹線は終え返し運転までの時間が12分で、乗客の乗り降りの時間が5分はかかるから車内清掃は実質7分しかないんだそうです。たったそれだけの時間しかないのに、座席の向きを反転して、クロスでテーブルや窓を拭いて床も拭き、トイレや洗面台もキレイにするんです。一つの座席に掛けてるのはわずかに数秒。終われば一列に並んで、出発されるお客様をお見送りするんです。これには海外のメディアも注目しているんだそうです。『7分間の奇跡』として紹介されたんだとか。
私も以前、新幹線ではないですけど、特急電車をよく使っていた時期があり、そのときにもその素早い行動にいつも感心していたものです。キレイにしてくれるスタッフがいるから、乗客は気持ちよく利用できるんですものね。そうそう、その記事にあるように、私が利用していた特急電車でも、清掃が済んだら、スタッフの人は入口に立って乗り込むお客さんに頭を下げて迎えいれてくれていました。
日本では『おもてなし』という言葉がよく使われます。色んな『おもてなし』があるけど、相手に満足してもらえるように真心を込めて対応するということが共通していて、これは日本が誇れることなんだと思います。